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わたしの前世は、例えば芳沢あやめのような江戸時代の“女形”だったのではないか、と密かに思うようになった。何故ならこうして海外の大学に勤務する教師としての“日常”の生活より、1年に1度か2度訪れる舞台の“非日常”ほうが、ずっと「生きている」という現実感が濃いのである。そしてそれは日常の生活から若さや美や快楽が失われてゆくに従って、つまり年老いてゆくに従って、ますます妖しい輝きでわたしを捕らえて放さない。わたしは最初の戯曲集『むかしばなし羅婬伝説』の「あとがき」に、つぎのように書いている。

「・・・西洋での生活が長くなればなるほど、能や歌舞伎など日本の古典芸能に対する私の郷愁にも似た憧れは止みがたいものとなっていった。それは遠い昔消え去ってしまったはずの恋に憧れるようなものである。

私は四つくらいまで祖父母の家-祖母が亡くなった後はその家に出戻っていた伯母のもと-で育てられた。祖父は花柳章太郎の贔屓だったほどの芝居好きで、私はものごころつく以前から祖父や伯母の膝に抱かれて歌舞伎座や新橋演舞場や明治座の芝居を毎月のように見物していた。またその頃、伯母のことろにしょっちゅう遊びに来ていた女友達の一人に、藤間の踊りの師匠がいた。伯母に手を引かれ「おっしょさん」の稽古場で行われる踊り初めや劇場で催される温習会に連れて行かれるうち、私は伯母にねだって「おっしょさん」から踊りの手ほどきを受けたことがあった。(中略)しかし、そんな夢のような幼い日の幸福も長くは続かなかった。誰かの罪のない告げ口で私の「お稽古」を知った父は、烈火のごとく怒った。ある日いつものように女達に囲まれて「おさらい」をしているところに、突然父親が入ってきた。蓄音機の音で、勝手口の開く音に誰も気がつかなかったのである。父は私が手にしていた子供用の小さな舞扇をもぎ取ると、その場でびりびり破り玄関のたたきに投げつけた。 私はその時破かれた舞扇のことを、今でも目に浮かべることが出来る。・・・・(中略)・・・・「三つ子の魂百まで」とは、よく言ったものである。万里の海を隔てた遠い西洋の地にあっても、私にはものごころつく以前のとりとめもない夢のような思い出につながる歌舞音曲の世界がなつかしい。そしてそのなつかしさは、年月が隔たるとともに、恋心にも似た憧れに変わっていったのである。・・・・」

わたしはそして三十を過ぎてから地唄舞神崎流の門をたたき、地唄舞の稽古をはじめた。畳二畳で舞うという地唄舞なら海外にいても稽古が出来ると思ったのである。そして今から十四,五年前、現在のわたしの舞踊の師匠花柳衛彦師に出会ったことで、わたしの「舞踊家」としての道はにわかに活発になった。1994年には、ジュネーヴにヨーロッパで唯一の日本舞踊学校を創設し、同じ神崎流の名取りであるジュネーヴ在住の神崎美恵さんと一緒に日本舞踊の普及につとめる傍ら、ヨーロッパ各地で日本から招いた舞踊家さんたちと一緒に日本舞踊、地唄舞の公演を行っている。また、毎年九月のはじめには国立大劇場で催される「華扇会」にレギュラー出演し、神崎流地唄舞の会や四国の内子座にも出演している。

お稽古はじめ
お稽古はじめ
伯母の友達だった踊りのお師匠さんのところでお稽古をはじめた頃。
二歳のぼく(中央)。伯母(後ろの列の右から三番目)。
祖父のお妾さんだった人(伯母の隣の日本髪の婦人)。

お稽古はじめ
伯母の友達だった踊りのお師匠さんのところでお稽古をはじめた頃。
二歳のぼく(中央)。伯母(後ろの列の右から三番目)。
祖父のお妾さんだった人(伯母の隣の日本髪の婦人)。